夢は幻
結婚して初めての私の誕生日に、夫が猫を飼うことを承諾してくれました。
SPCAという、こちらの捨てられた猫や犬が保護されている施設を訪ねたのですが、どうしても「この子だ!」という出会いがないまま、諦めて夫と今日はもう帰ろうかと話していた時でした。 飼いたい猫のサイズ、色や年齢、性別さえも、大したこだわりがあったわけではありませんでしたが、これから一生一緒に暮らしていく猫なのです。 どうしても「この子じゃなきゃ!」っていう運命の絆を感じさせる1匹に出会うまで諦めたくありませんでした。 出口に向かって歩き出した時、夫が入り口の小部屋にひとつ猫用と見られるケースが置いてあるのに気づきました。 1つだけ別に置かれたケースには猫の姿はありませんでしたが、ちいさい子猫用のエサ入れがありました。 もうもらわれていっちゃたんだね~と、私と夫が覗き込んでいると、係りの女性が腕にできた大きな引っかき傷を指差しながらしかめっ面で入ってきました。 「猫? いるわよ。 この子はね~ 人間のそばで暮らしたことがない野生の猫が産んだ子猫なのよ。 廃棄物処理場の裏に住み着いていたところをやっとこの一匹だけ保護できたんだけどね。 気も荒そうだし人に慣れてないし、(野生だから)狂犬病に感染している恐れもあるから、お勧めできないわ。」 人とつかず離れずに暮らしている「野良」ではなくて、あくまでも「野生」なんだそうです。 そう言われてもう一度奥を覗くと、小さな黒い塊がケースの隅っこにうずくまっていました。 逃げ出す可能性もあるし狂犬病の疑いもあるということで、ケースを開けさせてもらえないので、ケースの位置をちょっと壁からずらして、外からその猫に触ってみました。 緊張して硬くなっているけど、やわらかくて暖かい塊。 耳の先に長い黒い毛が房のように生えている、小さな小さな猫。 触ったら飛び上がるかと思ったのにじっとしたままだったので、もう少し大胆に人差し指をお腹の下に入れてみると、心臓が凄い速さでドキドキしていました。 1週間後、予防注射を終えたこの猫は、お世話になったSPCAでもらった箱に入って私のヒザに乗せられて、我が家に向かう車の中にいました。 「完全な野生で正確な月齢がわからないので、予防注射はしましたが小さすぎたらショックで死ぬかもしれません。」 「狂犬病に感染している恐れがあるので、これから3週間慎重に様子を見て、ヨダレを垂らしていたり、様子がおかしいことがあればすぐ連絡してください」 本当に連れてっていいんですか?と聞きたくなるような忠告を受けての帰路でしたが、やっと家に連れて帰ることができて私も夫も喜んでいました。 その頃間借りしていたアパートの2階で箱を開けると、猫は稲妻のごとく飛び出して、その後3日ほどどこにいるのかも分からない状態でした。 夜エサを出しておくと、朝にはなくなっていて、用意した猫用トイレには使用した痕跡が。。。 夜中にカリカリとエサを食べる音はするのですが、ベッドを抜け出して居間に見に行くころにはいなくなっていました。 そんな日が何日か続いていたときに、台所にいた夫が小声で私を呼びました。 「見つけたよ」 猫は台所のシンクの下の棚の奥の、腐って開いた穴の中にいました。 台所の床に腹ばいになったまま思い切り手を伸ばすと、小さな前足と胸毛にさわることができました。 懐中電灯をあてると、床と棚の間の隙間にぴったりと入った猫の体と光る丸い目が2つ見えました。 久しぶりに会えた猫に嬉しくなって夫と二人で、床に寝そべったままかわりばんこに猫を触っていると、猫はちょっと前に出てきて私達の手に身体を擦り付けてきました。 喉がゴロゴロいっているのが指に響いてきます。 調子に乗った夫がその穴から何とか出そうと猫の身体を掴んだ途端、もっと奥までひっこんでしまいました。 その翌々日くらいに、私と夫が夕食後TVを観ていると、猫は私達のいるソファから2メートルくらい離れたところまでそっと出てきてうずくまりました。 ずっとそこで寝そべって一緒にTVを観ているかのようでしたが、電話の音がした途端また身をひるがえし、いつもの隠れ場所にもどってしまいました。 またそれから何日かして、今度はいきなり夫の座っているソファの背もたれに飛び乗りました。 喜んだ夫が撫でようとして手を上げた途端、またいなくなりました。 翌日は、私がソファで寝そべって勉強をしていると、突然背中に飛び乗ってきました。 びっくりした私が思わず振り向くと、向こうもびっくりして私の背中に大きな引っかき傷を残して行ってしまいました。 こうして自分のペースで徐々に我が家に慣れてきたこの猫に、私はその後Seymourと名づけました。 Seymourは灰色に黒い斑点があって、耳の先とシッポの先だけ黒くて長い飾毛のある美しいオス猫でした。 黒いスエード地に白い鈴のついた首輪をつけた彼は、私か夫が出先から帰ると犬のようにドアまで出迎えてじゃれ付きましたが、私達以外の人間が来るといつもどこかに雲隠れして姿を見せることはありませんでした。 ソファで一緒にくつろいでいた彼が突然走り去ると、決まってその数秒後に宅配便や友人がドアをノックしました。 私達の猫自慢を聞くだけで、あんまり見かけないものだから、「本当にネコなんか飼ってるの?」などと疑う知り合いまでいたほどで、よく遊びにくる友人達にちょっと皮肉に「幻の猫だね」なんて言われるようになりました。 私達にはすっかりなついたSeymourは、気まぐれなネコというよりは犬のように忠実な一面のある一風変わった猫でした。 屋内飼いの猫でしたが、たまに外に出すとすぐ見えなくなります。 チリンチリンという鈴の音がだんだん遠ざかってとうとう聞こえなくなり、心配になって名前を呼ぶと、今度はだんだん大きくなる鈴の音とともにひょっこり顔を出しました。 ホッとした私の胸の内に湧いてくる愛情にこたえるように私を見上げながら、足の間を行ったり来たりしました。 夫の留守中のひとりぼっちの夕食時や試験勉強中の長い夜にはいつも私のそばに居て、もちろん何も言わないけれど、私のよき理解者でした。 月日は経って、私達夫婦も無事念願だった社宅に移り住むことになり、私達の「縄張り」は、断熱材の入っていないあばら家での生活よりもずいぶん住み心地のよい環境に変わりました。 元来猫は、人ではなく家につくということで、Seymourの新しい環境への順応性を心配していましたが、当の本人は大して困惑しているようすもなく、毎日は穏やかに過ぎていきました。 社宅に移ったら赤ちゃんを…という計画だったのですが、なかなかすべてがそう上手く運ぶことはなく、私たち夫婦はその頃立て続けに2度の流産を経験しました。 自宅療養中も、流産してしまった後も、周りの人間が下手に気を使ったり夫と私が落ち込んでいる間、Seymourだけは私のベッドの枕もとの窓際にずっと座っていつもと変わらない調子で甘えて普段通りの生活を続け、それにかえって慰められたものでした。 やっと念願かなって3回目の妊娠が安定期に入り、だんだんお腹が大きくなってくると、私のお腹は彼の特等席になりました。 静かな週末にソファに横になって本を読んでいると、彼は必ず私のお腹にそっと登って、ゴロゴロと喉を鳴らして細めた目で私を見ます。 本からは目を離さないまま、ずっとお互いの気の済むまで撫で、撫でられて、時間はゆっくり過ぎていきました。 年が明け、妊娠7ヶ月頃のことでした。 日曜日でも関係なく、いつもなら6時きっかりに胸の辺りを歩き回って起こしに来るSeymourがいなくて、その朝私は少し遅く起きました。 ベッドから下りると足元に擦り寄ってくるはずの彼がいません。 私がテーブルに広げて読む新聞の上に必ず邪魔になるように居座るはずのSeymourがいなくて、その時初めて異変に気づきました。 前の晩、夜寝る間際まではソファに座って本を読む私のお腹の上で眠っていました。 でも、私が寝室に行く直前に出しておいたエサに手をつけた様子がありません。 何度も何度も彼のお気に入りの場所を探しても見つかりません。 だんだん不安で鼓動が激しくなりました。 外には3日ほど前に降った、その冬初めての大雪がまだ積もっていました。 家の中には絶対にいないと確信すると、居ても立ってもいられなくなってコートを羽織って外に出て彼の名前を呼んでみました。 雪の積もった屋外はいつもよりもさらに静かでしたが、いくら耳を済ませてもSeymourの鈴の音が聞こえることはありませんでした。 それでも前のように急に角からひょっこり顔を出しそうな気がして家の周りを歩いてみると、家の外壁ぎりぎりのところに無数の足跡がついていることに気づきました。 何周も何周も、行ったり来たりしたような足跡は、私の寝室の窓のすぐ下にも、数え切れないほどありました。 その足跡を辿って歩いてみたけれど、結局Seymourの行方はわかりませんでした。 2度目のクリスマスを一緒に過ごし、春になって赤ちゃんが生まれるのを待つだけだった、そんな時期の突然の出来事でした。 地域のSPCAに報告、新聞広告、貼り紙、思いつくことは全て手配しました。 「猫は薄情なところがあるんですよね。 きっと誰かについて行っちゃって、そこで幸せに暮らしてますよ。」 SPCAを訪ねて何度目かの時、係りの方はそう言ってなぐさめてくれました。 いえ、そうじゃないんですよ。 だって『幻の猫』なんだから… ダメなんです。 Seymourが初めて人間に捕獲された場所にも行って名前を呼んでみました。 2度、道路際で猫の死体を見つけたときにはSeymourかも知れないと思って泣きながら夫と箱を持っていってみたこともありましたが、いずれもハズレでした。 夜中に窓の外で鈴の音を聞いたような気がして外に飛び出たこともありましたが、結局Seymour と会うことは二度とありませんでした。 Seymourとの出会いにはとても運命的なものを感じたのですが、別れもまた逆らうことのできない運命だったのでしょうか。 春が来て、桜が咲く頃長女が生まれました。 夫の日本駐在も決まり、引越しの準備をそろそろ始めようかと話していた頃でした。 それまで、何となくまたフラっと帰って来そうな気がして、エサ入れもトイレもいつ帰ってきてもいいように用意したままだったのですが、ある日ふと、Seymourはもう私のところには帰ってこないんだな~と思った日がありました。 愛用していたエサの入れ物を洗って、トイレの砂も捨てて片付けてしまうと、Seymourと過ごした時間が実は夢の中の出来事だったような、そんな錯覚を起こしました。 写真もない。 Seymourを見たことがある人さえいない。 残っているのはあのやわらかい感触と、鈴の音。 私と夫が2人だけで見た、幻。 今まで縁あって飼うことになったペットはすべて最期まで付き合ってきたのですが、Seymourだけは違うので、未だに思い出すとちょこっと胸が痛いです。 大人になるところだった私が、生まれて初めて好きな人から贈られた猫でした。 長女が生まれる前に出会った、夫と同じくらい大切な私の猫でした。
by 4x4T
| 2005-11-09 08:52
| 家族
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